日本の古代ミステリーとして外せないのは、やはり邪馬台国でしょう。その真相を探ってみました。
・邪馬台国が有った当時の朝鮮半島の状況。
多数の国が存在している事が分かります。百済と新羅はまだ現れていません(図 付録1)。
図 付録1 朝鮮半島情勢図
この図の国境線は、もちろんおおざっぱな物です。中国の歴史書を参考にしました。以下のサイトから原文と訳文を引用しています。素晴らしいサイトで感謝です。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kanbun-mokuji.htm
(現在は閉鎖になっているようです。)
『三国志魏書・高句麗伝』
【高句麗在遼東之東千里、南與朝鮮、濊貊、東與沃沮、北與夫餘接。都於丸都之下、方可二千里、戸三萬。】
「高句麗は遼東の東千里に在り、南に朝鮮、濊貊、東に沃沮、北に扶余と接する。丸都の麓に都を置く、方形は二千里、戸数は三万。」
『三国志魏書・穢伝』
【濊南與辰韓、北與高句麗、沃沮接、東窮大海、今朝鮮之東皆其地也。戸二萬。】
「濊。南は辰韓、北は高句麗と沃沮に接し、東は大海(日本海)に尽き、今の朝鮮の東は皆、濊の土地である。戸数は二万。」
『三国志魏書・東沃沮』
【東沃沮在高句麗蓋馬大山之東、濱大海而居。其地形東北狹、西南長、可千里、北與挹婁、夫餘、南與濊貊接。戸五千】
「東沃沮は高句麗の蓋馬大山(狼林山脈)の東に在り、大海(日本海)に沿って暮らす。地形は東北に狭く、西南に長く、千里はある。北に挹婁、扶余、南に濊貊と接している。戸数は五千、」
『三国志魏書・挹婁伝』
【挹婁在夫餘東北千餘里、濱大海、南與北沃沮接、未知其北所極。】
「挹婁は扶余の東北千余里に在り、大海に沿い、南は北沃沮と接し、未だその北の極まる所を知らない。」
『三国志魏書・馬韓伝』
【韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里。】
「韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽きる。南に倭と接し、地積は四千里ばかり。」
『後漢書・馬韓伝』
【韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。】
「韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁辰という。馬韓は西に在り、五十四カ国、その北に楽浪、南に倭と接する。辰韓は東に在り、十有二国、その北に濊貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十有二国、その南はまた倭と接する。」
・魏の使者のルート。
魏志倭人伝によれば、魏の使者は次のような行程をとっています。
「帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行、韓国を経て、南へ行ったり、東へ行ったりして、北岸の狗邪韓国に到ること七千余里。初めて一海を渡り、千余里で対馬国に至る。」
図 付録2 魏の使者のルート【帯方郡】を出発→(南へ東へ水行)→【狗邪韓国】→(初めて海を渡り)→【対馬国】→(海を渡り)→【一大国】→(海を渡り)→【末盧国】
帯方郡を出た船は、朝鮮半島の西の沿岸を南下し、南端に達して東に向きを変え、狗邪韓国に達したと考えられます。魏志倭人伝には「(倭の)北岸の狗邪韓国に到る」と書いてあり、しかも「初めて一海を渡り、千余里で対馬国に至る」とも書いてあります。『後漢書・倭人伝』には「(倭の)西北界の拘邪韓国……」と書いてあるので、狗邪韓国は明らかに朝鮮半島南部に存在し、対馬の北西に有ったようです。
対馬国は対馬、一大国は壱岐島と比定されており、これ以外の説はほとんどありません。
この「里」は、中国古典の『周髀算経』から「里=76m」が導き出されています。この数値は、倭人伝に当て嵌めてもまったく矛盾しない数字となっています。つまり、魏志倭人伝では、帯方郡から狗邪韓国まで7000里(532km)ですので、出発地の帯方郡は現在のソウルあたりに有ったようです。
この短里説については異論も多いと思いますが、魏志倭人伝以外にも裏付けがあります。『三国志魏書・高句麗伝』では「高句麗は遼東の東千里に在り……方形は二千里」と書いてあります。これが通常の「里=434m」であれば、「高句麗は遼東の東434kmに在り……方形は868km」となり、日本海にはみ出す荒唐無稽な国になってしまいます。また『三国志魏書・馬韓伝』にも「(韓は…)地積は四千里ばかり」と書いてあり、これも通常の里では、朝鮮半島全体を含むような巨大な国になってしまいます。
当時の朝鮮半島には、帯方郡と楽浪郡という中国政府の郡が置かれていました。たとえ昔といえ、中国人がおひざ元の高句麗や朝鮮半島の距離を、ここまで大きく間違えたとは考えられません。しかし、これらも短里だった考えると、高句麗は遼東の東76キロメートルに在り……方形は152キロメートル」「韓の地積は304キロメートルばかり」となり、地図上に問題なく的確に当てはまります。
つまり、倭人伝だけでなく『東夷伝』には、独特な単位の短里が使われていたと結論付けられます。これにより、畿内に邪馬台国が有った可能性は完全に消え、九州に邪馬台国があった可能性が高まります。
・最初の謎、末盧国→伊都国。
魏の使者は、倭国の港町「末盧国」に着きました。末盧国も多くの説が有りますが、この謎を解く鍵は「末盧国、伊都国、奴国、不彌国」、この4国の位置関係にあると言えます。
後漢書倭人伝には「奴国は倭国の極南界」と書いてあります。極南界とは最も南、つまり、九州だと考えられ、末盧国も九州だと考えられます。候補地として、唐津、糸島、博多、北九州などが上げられます。魏の使者は次に、南東へ陸行五百里を移動し伊都国に行きます。これを図にすると(図 付録3-1)になります。
図 付録3-1 末盧国・伊都国・奴国・不彌国の位置関係
ここで重要なのは、二万余戸の奴国です。上陸地点の末盧国から南東約46km付近に、2万戸が可能な広い平野が存在する必要があります。この位置関係を地図上に示してみます(図 付録3-2)。
図 付録3-2 上陸地点と伊都国・奴国候補地
この地図を見ても分かりますが、伊都国・奴国・不彌国の地理的条件を満足させる候補地は、たった一つ筑紫平野だけです。それ以外は奴国が海や山になり、2万戸が存在可能な平野が成り立ちません。よって上陸地点は、唐津から糸島付近に絞られる事になります。ただし糸島に上陸したとすると、南東への陸行は険しい山中になるので、最終的には唐津が最も有力な上陸候補地になります。
伊都国は筑紫平野の北西が候補地となり、奴国は筑紫平野の南部、不彌国が筑紫平野の東部が候補地になります。筑紫平野北部には、有名な吉野ヶ里遺跡が存在します。吉野ヶ里遺跡は水田が無く、城柵や環濠や塔楼が有るなど軍事施設を思わせる遺跡です。魏志倭人伝でも伊都国に一大率を置き、諸国を検察させていると書いてあるので、その状況は極めて良く一致します。よって、吉野ヶ里遺跡が伊都国だった可能性が高いと考えられます。
現代の地図では、吉野ヶ里遺跡がかなり内陸部にあるように感じますが、現代の海岸線はたゆまぬ干拓工事の結果であって、古代の海岸線はもっとずっと奥にありました。縄文時代は、吉野ヶ里遺跡のすぐ近くまで海岸線が迫っており、弥生時代も佐賀市は海でした。有明海は今でも干満差が6mもあり、邪馬台国時代の筑紫平野も、広範囲に干潟が広がっていたと考えられます(図 付録4)。
図 付録4 伊都国、不彌国、奴国の比定(筑紫平野の青色は、Google SeaLevelの[+1m]表示で、干潟や海だった可能性が高い部分)
このように、伊都国・奴国・不彌国の位置関係は、古代の筑紫平野と的確に当てはまり、伊都国は吉野ヶ里遺跡で、奴国は八女市付近と比定できます。当時の伊都国と奴国は、海に面していたと言ってよいでしょう。不彌国は、久留米付近に有ったと思われますが、候補地が多く明確な比定は出来ませんでした。
・最大の謎、邪馬台国。
次は最大の謎、邪馬台国が有った場所です。魏志倭人伝には「邪馬壹国の女王の都まで水行十日、陸行一月」と書いてあります。しかし、これだけだと多様な解釈が可能で、どこにでも可能性があります。
そこで謎を解く鍵として狗奴国に注目しました。「南に狗奴国あり、女王に従属していない」、そして「倭の女王『卑彌呼』と狗奴国の男王『卑彌弓呼』は元より不和。倭は載斯、烏越らを派遣して(帯方)郡に詣でて攻防戦の状況を説明した」。つまり、戦いの決着がつかず魏に調停を頼んだという事が書いてあり、狗奴国が邪馬台国と互角の勢力を持った国だという事が分かります。邪馬台国が七万余戸なので、その南にそれに匹敵する戸数が可能な、広い平野を持つ国が有った事になります。
筑紫平野が邪馬台国であれば、その南の熊本が狗奴国の可能性があります。しかし、残念ながら筑紫平野は伊都国と奴国です。あとは残った土地を振り分けるしかないでしょう。となると、九州南部が自動的に狗奴国に比定されます。なぜなら宮崎が邪馬台国なら、その南に有るはずの狗奴国がかなり小国になり、邪馬台国と互角の勢力など有り得ないからです。
結果として伊都国(筑紫平野)の南に有り、狗奴国(鹿児島・宮崎)の北に存在する熊本平野が邪馬台国に比定されます(図 付録5)。
図 付録5 邪馬台国と狗奴国
邪馬台国と比定した熊本平野は、奈良盆地の倍ぐらいの広さが有ります。しかも温暖なので稲作に向いています。年2回収穫できる二期作も可能でしょう。有明海の豊かな海の恵も有ります。つまり、熊本平野には大勢力が育つ条件が揃っています。
邪馬台国と狗奴国との勢力境界は、赤い線になると思われます。現在の九州の文化もこのラインで二分されるようなので、古代を反映しているのかも知れません。
・古事記における九州。
古事記では「筑紫島(九州)」に四つの国が有ると書かれています。それは「筑紫(つくし)の国、豊(とよ)の国、肥(ひ)の国、熊襲(くまそ)の国」の四つです。これを現代に当て嵌めると次のようになります。
・筑紫国 福岡県
・豊の国 大分県
・肥の国 熊本県、長崎県、佐賀県
・熊襲国 鹿児島県、宮崎県
そして古事記では、筑紫島の四つの顔(おそらく王)が書かれています。
・筑紫国 シラヒワケ(白日別)
・豊の国 トヨヒワケ(豐日別)
・肥の国 タケヒムカヒトヨクジヒネワケ(建日向日豐久士比泥別)
・熊襲国 タケヒワケ(建日別)
これをみると「肥の国」だけ名前が長いしヒムカという文字が入っています。明らかに特別扱いされています。
日本書紀においては、景行天皇が日向国(宮崎県)に入り熊襲を倒しています。また神功皇后が筑紫国の山門郡(福岡県南西部)で、土蜘蛛の田油津媛を倒しています。九州というと全て熊襲と考えますが、熊襲と土蜘蛛は書き分けられており別の勢力のようです。これらの勢力は、畿内の大和王権によって倒されましたが、それ以前の九州は一枚岩ではなく、熊襲と土蜘蛛の二大勢力が存在していた可能性が高く、それが邪馬台国と狗奴国、つまり、肥の国と熊襲国の争いだったと考えられます。
その争いの結末は、卑弥呼の宗女の臺与が立った事で収まったようですが、その停戦も長く続かなかっただろうと思われます。ただ、やがて九州の勢力は、畿内の勢力に征討され支配下に入りました。
なお、土蜘蛛は古事記で「土雲」と書かれています。よって蜘蛛のような民族ではなく、おそらくは「出雲」に近い勢力であったと推測されます。支配者である大和朝廷が、わざと雲を蜘蛛に変えて蔑称にしたのでしょう。
・最後の謎、邪馬台国の都の場所。
熊本平野を見回すと、山鹿市というのが見つかりました。「やまが市」、なんとなく邪馬台国っぽいような気がします。現代の中国人も濁音が苦手で、邪馬台国の表記も邪馬壹國、邪馬臺國と表記にブレがあり、古代中国人が聞き取りにくい発音だった可能性もあります。また、熊本県菊池郡には「山門郷」が有ったという伝承も残っています。
その周辺に遺跡が無いか探すと「方保田東原(たとうだひがしばる)遺跡」というのが見つかりました。吉野ヶ里遺跡に匹敵すると言われ、多くの弥生時代の鉄器や青銅製品が見つかり、国指定の史跡になっています。さらに探した所、「台(うてな)遺跡」という物が見つかりました。2ch情報では4重の環濠が見つかっているのに、ほとんど未発掘だとか……。
(有ったんですね、日本にこんな所が……。吉野ヶ里クラスが並んでいるのに、ほぼ未発掘だなんて……。熊本は大物すぎます。)
場所的に、うてな遺跡こそ卑弥呼が住んでいた邪馬台国の都だったと思うのですが……どうでしょう。うてな遺跡の背後には、神秘的な阿蘇山が控えています。邪馬台国という強国の都が、ここに存在したのも当然のように思えて来ます。(図 付録6)
図 付録6 邪馬台国の都の候補地
・水行十日、陸行一月の謎。
最後に「水行十日、陸行一月」の謎を考えます。これは伊都国からの行程でしょう。魏志倭人伝には「夷人不知里數、但計以日(里数を知らない、ただ要した日程で計っている。)」と書いてあります。帯方郡から伊都国までは距離は里で書かれているのに、伊都国から先はほとんど全てが日数です。よって日数で距離を書かれた国は、倭人からの伝聞である可能性が高いと言えます。
また、別の根拠のとして、魏志倭人伝では次のように書かれています。
「伊都國…………有千餘戸」
「奴國……………有二萬餘戸」
「不彌國…………有千餘家」
「投馬國…………可五萬餘戸」
「邪馬壹國………可七萬餘戸」
伊都国と奴国と不彌国は、「有〇〇」と書かれています。それに対し、投馬国と邪馬壹国は、「可〇〇」と書かれています。この違いは、「〇〇戸有る」と「〇〇戸ほどか」のようです。つまり、中国の使者は、伊都国と奴国と不彌国は実際に確認し、投馬国と邪馬壹国は確認してない事が伺えます。これも、使者が来たのは伊都国までという説を裏付けます。
伊都国から都(熊本平野)までは、「水行十日+陸行一月」は有り得ず、「水行十日、または陸行一月」だったと思われます。伊都国から川を下り、有明海を南下して菊池川を遡って、水行だけで邪馬台国の都に比定した場所に到達します(図 付録7)。
図 付録7 邪馬台国の都までの道のり
このルートの赤線で、距離が約100kmあります。船旅の日程には休みの日とかも考え、川を遡る日程もあるので、水行十日は妥当と考えられます。陸行一月は、干潟を避け山際のルートを歩いたとする日数だと思われます。掛かり過ぎのようにも感じますが、当時は街道は無く食堂や宿屋も無いので、毎日野宿に自炊で、しかも暗くなると何も出来ない旅だったでしょう。かなり時間が掛かるのも納得できます。おそらく、その時代では、伊都国から邪馬台国の都まで陸行をする事は無く、質問された人が考えあぐね、やむなく答えたと思われます。山越えすれば近いですが、今のような峠道は無く危険で不可能だったと考えられます。
朝鮮半島南部の狗邪韓国から、うてな遺跡までは距離が350kmほどあります。魏志倭人伝によれば、狗邪韓国から女王の都まで5000里(380km)でした。よって、ほぼ一致していると言えます。中国の使者は優れた地理把握能力を持ち、正確な記録を残したかなり有能な人だったようです。
また魏志倭人伝には「南に水行二十日で投馬国」とも書いています。これも同様に伊都国からの水行だと思われます。しかも女王国に属しているようです。よって投馬国を邪馬台国と狗奴国の間の土地、球磨郡だと比定しました。伊都国から筑後川を下り、有明海を100kmほど南下し球磨川を上ると、距離も200kmほどあり邪馬台国までの水行のほぼ2倍です。よって水行二十日は妥当です(図 付録8)。
図 付録8 投馬国までの道のり
投馬国は、地理的には狗奴国に近いですが、その間は険しい山で道がなく、川が有明海に注いでいたので、交通の便から邪馬台国陣営に属したのでしょう。陸行が書かれて無いのは、陸路で到達するのが不可能だったからだと思われます。
・まとめ。
魏の使者が上陸したと比定される唐津は肥前国に属します。伊都国に比定できる佐賀市近辺も肥前国です。そして邪馬台国に比定した熊本は肥後国です。つまり、魏志倭人伝の使者は「肥の国」だけを旅した事になります。
これは、古代の不安定な倭の情勢の中で、邪馬台国の案内人が最も安全なルートを選択した結果だと思われます。伝説の卑弥呼は「肥の国の巫女」で、肥の国の元の意味は「火」であり「日」に繋がり、つまり卑弥呼は「太陽の巫女」だったのではないでしょうか?
卑弥呼もアトランティスの末裔だった可能性が高いと言えます。もちろん、九州を征討した大和朝廷もアトランティスの末裔が建てた国です。
また、神代文字として「肥人文字」の存在も気になります。『北史・倭国伝』には「無文字、唯刻木結繩。(文字は無い。ただ木に刻みを付け、縄を結ぶ)」と書いています。そして、『梁書・新羅伝』にも「無文字、刻木為信。(文字なし、木に刻みを入れて通信に使う)」と書いています。倭と半島南部は活発に交流していました。その双方に、木に刻みを入れる通信手段が有ったのです。これは、完全に文字と言えるのではないでしょうか?
鎌倉時代に書かれた『釈日本紀』には、大蔵省の御書の中に「肥人の書」が保管されていると書かれています。邪馬台国と卑弥呼はもちろんですが、日出ずる国と日本、肥人文字と神代文字……。これらもアトランティスと繋がりが有ると考えられます。今まさに、古代日本の真の姿が浮かび上がろうとしています。
《補足 邪馬台国に比定した有明海沿岸地域は、戦国時代にキリスト教が広まりました。その影響でキリスト教徒が、寺社や古墳などを数多く破壊したようです。キリスト教徒が過去の遺物を破壊した行為は、アメリカ大陸やヨーロッパ、アフリカでも広く行われました。この行為ゆえ、アトランティスの存在が闇に葬られました。卑弥呼の墓が今まで見つかっていない理由も、すでに破壊されているからかも知れません……。》
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